空間と時間の概念 ― 2019年05月15日
アインシュタインは著書「相対論の意味」の冒頭で次のように述べている。
われわれの概念、および概念の体系が妥当であるという唯一の理由は、それらがわれわれの経験の集成を表現するのに役立つという点にある。これ以上には、概念や概念の体系は何らかの妥当性を持ちえない。哲学者たちは、ある種の基本的な概念を、それを制御しうる経験領域から、“先験的必然”という捉え難い高所へ運ぶことによって、科学的思考の進歩に対して1つの有害な影響を与えたと私は信じる。なぜなら、概念の世界は、経験から論理的方法によっては導きえられず、ただ、ある意味で、人間精神―それなくして科学はありえない―の1つの創造物に過ぎないと思われるとしても、それにもかかわらず、この概念の世界は、ちょうど着物の形が人間の体の形をしているのと同様、われわれの経験の性質と密接な関係にある。このことは、とくにわれわれの空間と時間の概念に対してもほんとうであって、物理学者たちは、これらを修理し、ふたたび使用可能な状態におくために、これらを“先験的必然”の神殿からひきずり下ろすことを、事実によって余儀なくされてきたのである。(A.Einstein: The meaning of Relativity 相対論の意味 岩波文庫 より)
以上の文は何を言っているのか直ぐに頭に入らないので良く読み直して考えてみた。まず“先験的必然”とは何だろうか?“先験的”を調べると、カントに始まる我々の認識の仕方、可能な経験の制約に関する認識を言うとある。さらに分からなくなったが、要は“自明のこと”ということと考えられる。アインシュタインはこれまでのカントなどの哲学のある部分を科学にとって有害と批判している。カントの哲学における空間と時間の概念は、これを自明のものとして人間の手の届かないところに棚上げしてしまって考える対象からも外してしまった。しかしこの空間と時間の概念は我々の経験している性質と密接に繋がっており、それを科学として取り扱うべきである。だからカントらによって棚上げされたこの概念を再び経験と事実の世界に戻して扱っていくというアインシュタインの空間と時間に関する取り組みの決意を示していると解釈した。これでいいだろうか? 今後彼の時空について少しずつ理解して行きたい。
われわれの概念、および概念の体系が妥当であるという唯一の理由は、それらがわれわれの経験の集成を表現するのに役立つという点にある。これ以上には、概念や概念の体系は何らかの妥当性を持ちえない。哲学者たちは、ある種の基本的な概念を、それを制御しうる経験領域から、“先験的必然”という捉え難い高所へ運ぶことによって、科学的思考の進歩に対して1つの有害な影響を与えたと私は信じる。なぜなら、概念の世界は、経験から論理的方法によっては導きえられず、ただ、ある意味で、人間精神―それなくして科学はありえない―の1つの創造物に過ぎないと思われるとしても、それにもかかわらず、この概念の世界は、ちょうど着物の形が人間の体の形をしているのと同様、われわれの経験の性質と密接な関係にある。このことは、とくにわれわれの空間と時間の概念に対してもほんとうであって、物理学者たちは、これらを修理し、ふたたび使用可能な状態におくために、これらを“先験的必然”の神殿からひきずり下ろすことを、事実によって余儀なくされてきたのである。(A.Einstein: The meaning of Relativity 相対論の意味 岩波文庫 より)
以上の文は何を言っているのか直ぐに頭に入らないので良く読み直して考えてみた。まず“先験的必然”とは何だろうか?“先験的”を調べると、カントに始まる我々の認識の仕方、可能な経験の制約に関する認識を言うとある。さらに分からなくなったが、要は“自明のこと”ということと考えられる。アインシュタインはこれまでのカントなどの哲学のある部分を科学にとって有害と批判している。カントの哲学における空間と時間の概念は、これを自明のものとして人間の手の届かないところに棚上げしてしまって考える対象からも外してしまった。しかしこの空間と時間の概念は我々の経験している性質と密接に繋がっており、それを科学として取り扱うべきである。だからカントらによって棚上げされたこの概念を再び経験と事実の世界に戻して扱っていくというアインシュタインの空間と時間に関する取り組みの決意を示していると解釈した。これでいいだろうか? 今後彼の時空について少しずつ理解して行きたい。
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