唯物論のはじまり2019年05月01日

時代は令和になったが、紀元前400年以上前にギリシャの哲学者レウキッポスが原子論を提唱した。彼によれば、真実には原子と空間があるだけで、存在するすべては空間における諸原子の機械的因果必然的な結合分離の現象であるという。この原則に基づいて同時代のデモクリトスは次のように書いている。
習慣によれば甘いものは甘く、苦いものは苦く、熱いものは熱く、冷たいものは冷たく、色づいたものは色づいています。しかし本当は原子と空虚があるだけです。すなわち感覚の対象を実在であると考えて、習慣的にそう認めてはいるが、真実はそうではなく、ただ原子と空虚とが実在なのです。
レウキッポスとデモクリトスの考え方は同一であり、共同の唯物論哲学の創始者と考えられる。唯物論哲学はこの時代のプラトンの観念論哲学と対立する存在となった。しかしこの唯物論は思弁のみによる古代の空想的な哲学思想に過ぎない。実際の自然における法則はギリシャ時代にはまだ知られていなかった。これが科学すなわち理論と実験を結び付けるものになったのはそれから約2000年も後のガリレオの時代になってからであった。しかし、現代科学の考え方に近いデモクリトスらの原子論が今から2千数百年も前に空想に過ぎないとは言え提唱されていたことには驚く。その頃の日本列島は縄文時代の末期から弥生時代の初期であり、まだアマテラスも卑弥呼も存在せずようやく稲作が始まろうとしていた時代であった。その時点でも人類の潜在的知性は現代人と殆ど差異がなかったと言えるのだろう。

真空管とトランジスタ2019年05月02日

私は真空管を使う電子工作で子供時代を過ごしたので今でも真空管はトランジスタよりも親しみがある。しかし今日ではトランジスタなしには何も出来ないほどの時代になり、真空管で学んだことは役に立たなくなってしまった。このように技術というものは新しい技術が出てくると廃れたり陳腐化するという宿命を負っている。しかし温故知新という言葉にもあるように古い経験もそう馬鹿にできない。真空管はエジソンが高温のフィラメントから電子が放射されるというエジソン効果を発見したことから始まり、フレミングが2極管を発明し、これに続きドフォーレが増幅作用を持つ3極管を発明することで初期の電子機器の主流素子となる。この真空管は真空中の電子の流れを制御するものであるが、鉱石検波器やセレン整流器などの半導体によっても2極真空管と同じ作用をすることが当時から分かっていた。真空管からの類推でこのような半導体に第三の制御電極を加えれば増幅作用を持たせられるのではないかということで世界中で半導体の増幅素子の発明を目指した研究が行われる。真空管というものが先例であったおかげで次に目指す素子が何かという研究目標は明確であり、欧米だけでなく日本でもこのような研究をしていたようだ。しかし色々な人が鉱石検波器のような基本構造にさらに各種の材料を加えたり電極を追加するなどで実験したがどれも成功には至らなかった。その理由は真空管の動作原理からの類推発想から抜け出せなかったためで、そのような方向性の線上には解は見つからなかった。実は解は電子のエネルギーが量子化されているという新しい原理を踏まえたところにあったのである。目指すべきは漸進的改良ではなく不連続なイノベーションが必要だったということを後で知らされることになる。しかし不連続なイノベーションだけが素晴らしいのではない。ショックレーらによるトランジスタの大発明の前に、真空管からの発想で実験を繰り返している人たちの中で、半導体整流器の材料に別の材料や電極を接触させ、各電極のバイアス電圧を振って実験しているうちに大きく電流が変化するような現象を偶然に発見しており、これがショックレーらの研究の重要ヒントになっているようだ。イノベーションは突然起こるのではなく、我慢強い漸進的改良研究の中で偶然にイノベーションの種が生まれたとも言えるかもしれない。

読書 人間の建設2019年05月05日

古い本である。五十数年前に学校の先生の話を聞いて購入したが内容の記憶は殆どない。最近ある人からこの本を読んだ話を聞いたので、たしかその本は家にもあったなと思い、書架から出して読んでみた。内容は数学者岡潔と文芸評論家小林秀雄の対談。分野がまるで違う二人の話が噛み合うのか興味もあって読み進める。岡潔は聞き分けのない子供のように持論を話し、小林は戸惑いながらも多少大人でリードしようとする。まるでシャーロックホームズとワトソンのよう。難解な点はあるが数学者岡潔には多少関心もあったので我慢して読んでみた。岡潔は存外自然科学特に物理学には含むものがあるようで偏見にも似た言い方をする。「破壊だけの自然科学」という章では、アインシュタインが物理的公理体系を観念的公理体系や哲学的公理体系に変えてしまったと主張する。現在の物理学は数学者が数学的に批判すれば物理的ではないと言う。その辺のところは本当はどうなのか素人にはさっぱり分からないが、アインシュタインは古典物理学最後の人で理論と実験観察による検証の考え方は厳密であり、岡潔の言うようなものと随分違う気がする。さらに岡は原子爆弾を事例として挙げて自然科学は破壊しかしていない、建設は何もせず、しているのは破壊と機械的操作だけだと自然科学否定論を展開する。そして今の科学文明は自然にあるものを掘り出して利用する借り物であって自分で作ったものではない。建設はなにもできないのだと主張している。アインシュタインは井の中の蛙だとも評しているが彼自身それを認識していると思うので蛙とは違うのかなと思える。読んでいて抵抗を感ずる部分が多いが、当時の知性がどのようなことを考えていたのかを知る参考にはなったかも知れない。何のことはない只の頑固爺の会話とも思えなくはない。最後に理性について語っている。理性というものは対立的機械的に働かすことしかできないし、知っているものから順々に知らぬことに及ぶ働き方しかできない。ところが知らないものを知るには飛躍的にしかわからない。だから知るためには捨てよと言う。これが数学者岡潔の道理かもしれない。岡は言う。理性は知らないものを知ることはできない、だから理性の中を泳いでいる魚は自分が泳いでいるということがわからない。 なるほどね

無為自然という思想2019年05月07日

実在したかどうかはわからないが紀元前6世紀頃の思想家老子の考え方。儒教の仁義礼を退けて人為を捨てた無為自然を説いた。器は中の空の部分が大事であり、車輪は中心の孔の空いた部分が要になる。無や空があるから有が生きると言う。日本では中世に鴨長明という人がいた。彼の方丈記では諸行無常を説いていて無為自然ではないが、方丈の小さな庵で何も持たないストイックな生きかたは“無いこと”への肯定感がある。またすぐに思い浮かぶのがビートルズのLet it be 。これは、僕が悩んでいる時に聖母マリアが現れてありのままでいいよと囁く という歌詞。キリスト教の風土を知らないので本当の意味はまた違うのかもしれないが、人の世の住みにくさもまた文化や宗教を越えた普遍的な憂苦だろうか。社会の道義に疲れたときにはなにもせず流れに身を任せるという姿勢も良さそうだ。老子はまた、道可道非常道 (これが道だというものは本当の道ではない)と言っている。

火の動力の考察2019年05月09日

サディ・カルノーの論文で正式には、「火の動力およびこの動力を発生させるために適した機関についての考察」という長ったらしい題名がついている。カルノー以前には熱動力機関についての理論は存在せず、当時の熱動力機関の製作や改良は勘や経験のみで試行錯誤的に進めるという職人の仕事だった。判定基準や基礎的な理解も人によりまちまちであった。求められていたのは一般化された熱動力の基礎理論だったが、これを目指したのがカルノーである。カルノーは何らかの効率で熱源から動力を得るためには、高温の熱源と低温の熱源が必要であるとし、この物体の温度差から熱が移動する過程で熱を効率よく動力に変換する機関を考えた。その結果、カルノーサイクルという仮想の熱機関を考案して考察を展開する。彼の熱機関は断熱的な膨張行程と断熱的な圧縮行程、及び低温源と高温源に夫々接する2つの等温の熱交換行程とから成る計4行程の閉じたサイクルである。この理想サイクルの吟味により、理想機関の効率は2つの熱源の温度差のみに依存することを明らかにした。後にこれらから熱力学の第二法則やエントロピー概念が導き出される。カルノーサイクルは仮想に過ぎないと思われがちだが、カルノーサイクルで行程変化を逆回りにしたものがヒートポンプサイクルや冷凍サイクルと呼ばれるもので膨張弁の代わりに断熱膨張機を使えばほぼカルノーサイクルに準じた動作も実現できる。カルノーらによって作り上げられた熱力学はもう古くに完成した分野であるが、その完成度は高い。力学が進歩の中で変容していくのに比べて熱力学は少しも改変を必要としなかった。これは力学が個々の粒子の位置と運動量を全て指定しなければならない前提であったのに比べ、熱力学では個々の粒子に言及せずマクロ的な見方をする点に違いがある。熱力学はデカルトの方法論のような、対象を細かく分けていく考え方ではない点が面白い。熱力学は現代の自動車や家庭の冷暖房機器などのあらゆる熱分野における実用基礎理論として定着している。

自然科学と信仰2019年05月10日

前にも書いたが、神話は科学ではなく、信仰を基とする物語である。一方、科学とは自然の構造や現象などを客観的に解明しようとするものである。ガリレイやダーウインが新しい科学的知見を唱えたとき、キリスト教会は聖書の教えに背くものとして非難したが、これは宗教と科学の立場がもともと根本的に違うことを理解していないことから来る誤りである。宗教は元来 人間の主観から作られた神話が始まりであるのに対し、科学は人間の主観を排除した上に見えてくるものである。この2つを同列で論じる事自体が間違っている。人類は古来より自然の驚異に畏れを抱き、その環境の中で生活する自分たちも特別な存在であると考えてきた。それが宗教に繋がっている。しかし科学による解明が進むとともに、人間は自然の中でそう都合の良いものばかりではなく、ちっぽけな存在でしかないことが次第に明らかになって現代に至る。一方、自然科学の中に神を想定する議論もある。それは自然の摂理や宇宙にまで及ぶ自然法則、物質組成や物理定数などに一種の奇跡とも思えるような配列を読み取ることから来ている。これらの巧妙とも思われる自然法則そのものこそ神による配剤であると感じ、自然を神とする考え方もある。しかし、この宇宙が奇跡で作られたと考えず、これまで宇宙の創生と破滅が無限な回数繰り返された中で確率的に偶然生命体に合う物理定数の宇宙が生まれ、その中で知的生命体である人類も生まれたことにより宇宙を観察する存在になったと考えれば何も不思議はない。勿論人間はこの宇宙やそれを構成する物質や空間の構造についてまだまだ解明できておらず、本質を知るには永年に近い時が必要かもしれない。だが少なくとも神を想定しなくとも説明は可能だと言えるだろう。科学者が例外的に言う神はそのような偶然の産物である今の宇宙の法則そのものを指しているとすればそれを否定する理由はない。今後宇宙の解明が進むことで、我々の住む世界からとんでもなく離れた場所では現在の物理法則が適用できなくなることも考えられる。そうなれば現代科学が目指す大統一理論そのものさえまだまだ局所的な理論に過ぎないことを思い知らされるのだろうか。

現人類の祖先2019年05月11日

ミトコンドリアは細胞内にあるエネルギーを生産する小器官で独自のDNAを持っている。このミトコンドリアのDNAは母からのみ伝えられる。従ってこのDNAを追跡すれば母系が途絶えない限りどこまでも母系の祖先を突き止められる。このDNA解析で行きついたのがアフリカに20万年近く前にいた女性。有名なミトコンドリアイブと呼ばれる現人類の先祖となる女性である。これによりホモサピエンスはアフリカから全世界に広がったと結論づけられた。絶滅したネアンデルタール人もホモサピエンスと交配していて、欧州・アジア系人には数%のネアンデルタール人のDNAが入っていることが分かっている。近年、シベリアのデニソワ洞窟で発見された小指の骨で別の人類の存在が判明しデニソワ人と名付けられた。さらに最近チベットでもデニソワ人の化石が発見されて驚くべきことが判明した。デニソワ人はアジア地域に広く分布し、さらにオセアニアでは1万数千年前までデニソワ人が絶滅せず現人類との交雑が続いていたという。これらから現人類ホモサピエンスは、ホモサピエンスを主体としたネアンデルタール人とデニソワ人などとの混血種であると言える。人種により容姿などが大きく異なるのは、アフリカ人が純粋種ホモサピエンス、ヨーロッパ人がホモサピエンスとネアンデルタール人との混血種、アジア人やオセアニアなどの原住民がホモサピエンスとネアンデルタール人・デニソワ人の混血種であることに由来するのだろう。金髪碧眼で白い肌の白人は北欧に住んでいたネアンデルタール人から受け継いだ形質であり、アジア系の顔立ちはデニソワ人らから受け継いだ形質かもしれない。ネアンデルタール人やデニソワ人は絶滅し、ホモサピエンスが繁栄したことから、以前はホモサピエンスの頭脳や能力が優れていたという見方が多かった。しかし調べるにつれてホモサピエンスがネアンデルタール人よりも優れている点は殆ど無いことが分ってきている。唯一ホモサピエンスが優れているのは生殖能力が旺盛だということだけのようだ。この生殖能力の差がネアンデルタール人やデニソワ人の絶滅の原因であった可能性もある。しかしネアンデルタール人やデニソワ人の血は確実に我々の体の中に残り生き続けている。現人類は自らをサピエンス(賢い人)と名付けて思い上がっていたが、賢さはむしろネアンデルタール人の方が高かったのかもしれない。従ってダーウイン流に表現するなら、“生き残るのは賢い者ではなく、生殖能力が高い者である”ということになりそうだ。

地震の予測2019年05月14日

日本ではマグニチュード8以上の大規模地震は、南海トラフ沿いと三陸沖の2つにほぼ集中している。南海トラフ沿いの大規模地震(M8以上)は、今後30年以内に発生する確率が70から80%であり、昭和東南海地震(M8:1944)・昭和南海地震(M8.1:1946)の発生から既に70年以上が経過していることから切迫性の高い状態と言われている。一方、三陸地方では昭和三陸地震(M8.3:1933)のあと東日本大震災(M9:2011)との間に78年の間が空いている。大規模地震は100年~200年くらいで起こることが多いが、必ずしも周期的ではなく、数百年の間が空くときもあるし、ほぼ連続して起こることもある。だから南海トラフで前回の大地震から70年以上経過しても次の発生を予測することは不可能である。30年以内に80%などと言われても何の参考にもならないと言えるだろう。この南海トラフ地震予知のために膨大な税金が投入されてきた。しかし、東日本大震災の予知はできなかったし、何より熊本地震に至っては何の心配もされていなかった地域で青天の霹靂のように発生している。これらから今では地震予知の信ぴょう性を疑う人も多くなっている。そもそも地震は破壊現象である。雪の結晶の研究などで名高い中谷宇吉郎によれば物質の破壊現象は、物質の中の極微の弱点が重要な要素として現象を支配する不安定な現象である。こういう不安定な破壊現象は現在の科学では取り扱いかねる問題だ。均質な物質の棒を作ってそれを曲げる場合、どこが折れるということは火星に行ける時代になっても現在の科学では予言ができない。この点に科学の強力さと限界とがある。一方、地震の前兆を捉えることで予知ができるという主張もある。地震の前に生物の行動に異変が生じるとか、電磁波ノイズや磁気の変動が生ずるとか言われるが、はっきりしない。電磁ノイズに至っては地中深くで発生する地殻の割れに伴う圧電効果で高電圧が発生すると言われるが、一種の電磁シールド状態の地中からどのようにしてその電磁波が地表に出現できるのかを説明できていない。前兆段階の僅かな地殻の割れで電磁ノイズが出現したとしても弱すぎて他のノイズと識別できないだろう。仮に1年以内に大地震が起こると予知されても、その情報を生かすのは難しそうだ。現在、原理的に予測不能な破壊現象を予知しようとする地震予知活動はそのことを裏付けるようにこれまで何の実績もない。現時点では地震予知はできないという前提に立って、起きた場合の対応をどうするかに注力するしかないのかもしれない。(磁気の変動については電離層にまで影響し、電波伝播の異常とも関わるなどの説もあるが今のところ仮説のみのようだ)

空間と時間の概念2019年05月15日

アインシュタインは著書「相対論の意味」の冒頭で次のように述べている。
われわれの概念、および概念の体系が妥当であるという唯一の理由は、それらがわれわれの経験の集成を表現するのに役立つという点にある。これ以上には、概念や概念の体系は何らかの妥当性を持ちえない。哲学者たちは、ある種の基本的な概念を、それを制御しうる経験領域から、“先験的必然”という捉え難い高所へ運ぶことによって、科学的思考の進歩に対して1つの有害な影響を与えたと私は信じる。なぜなら、概念の世界は、経験から論理的方法によっては導きえられず、ただ、ある意味で、人間精神―それなくして科学はありえない―の1つの創造物に過ぎないと思われるとしても、それにもかかわらず、この概念の世界は、ちょうど着物の形が人間の体の形をしているのと同様、われわれの経験の性質と密接な関係にある。このことは、とくにわれわれの空間と時間の概念に対してもほんとうであって、物理学者たちは、これらを修理し、ふたたび使用可能な状態におくために、これらを“先験的必然”の神殿からひきずり下ろすことを、事実によって余儀なくされてきたのである。(A.Einstein: The meaning of Relativity 相対論の意味 岩波文庫 より)
以上の文は何を言っているのか直ぐに頭に入らないので良く読み直して考えてみた。まず“先験的必然”とは何だろうか?“先験的”を調べると、カントに始まる我々の認識の仕方、可能な経験の制約に関する認識を言うとある。さらに分からなくなったが、要は“自明のこと”ということと考えられる。アインシュタインはこれまでのカントなどの哲学のある部分を科学にとって有害と批判している。カントの哲学における空間と時間の概念は、これを自明のものとして人間の手の届かないところに棚上げしてしまって考える対象からも外してしまった。しかしこの空間と時間の概念は我々の経験している性質と密接に繋がっており、それを科学として取り扱うべきである。だからカントらによって棚上げされたこの概念を再び経験と事実の世界に戻して扱っていくというアインシュタインの空間と時間に関する取り組みの決意を示していると解釈した。これでいいだろうか? 今後彼の時空について少しずつ理解して行きたい。

古いWindowsのセキュリティパッチ2019年05月16日

Microsoftは昨日、Windows7以前の古いOSの新たな脆弱性について開示した。これはCVE-2019-0708で、マルウエアによるリモートコード実行の脆弱性である。悪用されるとユーザーが何もしなくても自己増殖するワームの作成が可能となる。危険性が高いため、なんとWindowsXPも例外的に更新の対象に含められた(KB4500331)。但し自動更新はできず、自分で探しに行って手動でインストールするしかない。実は私も無謀だが古いXPのパソコンをまだ限定的に使用している。XPでしか使えないソフトもあるし、Rs232cやパラレルのインターフェースを備えていて周辺機器の制御をしやすいため無線のFT8などのディジタル通信専用に重宝している。ファンの異音やメモリー不足などの問題があったが対策して使い続けている。ネットには殆ど繋がないためXPでもまだなんとか行ける。1昨年もXPの例外的セキュリティ更新があった。XPは2001年に発売されて以来18年を経過した。既に5年前にサポート終了しているがまだ潜在的使用者は少なくないようだ。このためにMicrosoftも例外的対応をしているようであり、これはこれで有難い。