新実存主義2020年03月02日

今流行の論者をミーハー的に追っかけたくはないが、最近発行されたM.ガブリエルの新実存主義(岩波新書)を読んでみた。難解で簡単に分かる気はしないのでここに書くのは少し気が引けるが何とか理解しようと務めてみた。
彼の描く新実存主義というのは人間の心の哲学である。自然主義(自然科学など)において心は脳などの中で神経の物理的な作用によって生まれるものとして扱われる。つまり動物の一員である人間は本質的に生物学的機械であり、その目的は他のあらゆる生命体と同じで脳はその目的に向けた機械要素であり、心はそこで生み出された情報であるとする。一方、彼の新実存主義では心と脳の関係はサイクリングと自転車の関係に例えられる。自転車はサイクリングの必要条件である。しかし自転車は道具でありサイクリングと同一ではない。心と脳の関係はサイクリングと自転車の関係と同じで、脳は心が生まれる必要条件であるが心と脳は同じではない。つまり心は頭の中にだけあるのではなく、意識を可能にする神経の活動結果というだけでもない。心にある自己認識や意味の形成、社会的活動の結果生まれ育まれるものであるとする。これらの長い間の経験を記録してきた現象が自然のメカニズムに統一して解明されるものではないという主張である。自然主義ではすべてを機械論的に理論化しようとする。しかし人間の「意識」は物語の虚構やゾンビの存在を考えることができるがそれらは物理的には存在していないものであり、自然に存在するものだけを扱う自然主義では扱えないものになる筈である。そうならばその概念を生み出している精神も自然主義では扱えないということになる。つまり心の特異性を自然の秩序に組み入れようとすれば失敗するという主張である。
実存主義を唱えている人は沢山いるが、人によってそれぞれ意味が違っている。例えばサルトルの実存主義では、人間は生まれた時は何でもない存在だが、自ら行動することで初めて人間になるという。ガブリエルの主張も数ある実存主義の一つの変化形と考えればいいだろうか?
自然主義では脳も物理的存在として扱われる。しかし、ガブリエルは心という精神的存在は脳そのものとは異なる存在で自然主義に包含されるものではないと主張する。近年の脳科学や人工頭脳の進化には目覚ましいものがあり、いつか心も自然科学的に解明されるのではないかという思いもする。そうなれば現在のガブリエルの主張は価値のない紙屑同様なものになるのだろうか?それとも時代に合わせて変容するのか?将来が楽しみだ。

白内障(その3)2020年03月05日

白内障手術をして2か月が過ぎた。裸眼の視力は0.7で安定して良く見えるようになったが近くを見るには少々不便になった。ド近眼の頃は強い眼鏡が何時でも欠かせなかったが近いものを観察するときは便利だった。眼鏡を外せば通常の人では見えないくらいの細かいものを易々と観察できたから。
1月9日のブログでは、子供のころに眼鏡を掛けさせられた為に近視の度数が急速に進んだと書いたがその思い込みは正しいのか調べてみた。
D.Adlerらの研究 ¹ がある。6歳から15歳までの近視の子供48人のうち23人に完全な矯正をした眼鏡を掛けさせ、25人には完全な矯正度数より+0.5D(Dはレンズの度数単位でレンズ焦点距離の逆数1/m)だけぼやけさせた眼鏡を掛けさせた。この2グループを18か月先まで追跡し、近視の進み傾向を比較した。その結果、完全な矯正をしたグループは+0.5D弱い矯正のグループに比べて少し近視の進み方が遅くなるという結論が得られた。つまり弱い眼鏡を掛けたほうが近視が少し進むということ。この理由についてははっきりしないが、子供の時期は通常遠視傾向があるためボケて見えると遠視によるボケと認識されて遠視を直す方向に眼軸がより伸びる性質があるらしい。
これまで感覚的に眼鏡は弱めにしたほうが度は進みにくいと考えていたのだけれど逆だ。すると自分が子供の頃に近視が急速に進んだのは眼鏡を掛けたせいではなく、むしろその眼鏡の度が弱めだったことが加速要因ということになる。昔我が家は裕福ではなかったため子供の成長につれて眼鏡の度数が合わなくなっても都度新しく買い替える余裕はなく、長い間合わない眼鏡のままで黒板の字もあまり見えない状態だった。だからもし眼鏡を掛けないでいたら更に近視の進行を加速しただろう。もちろん眼鏡の矯正度数の影響はそれほど大きくはなく、遺伝的な要因や生活習慣のほうが強いと言えるだろうから眼鏡を掛けようが掛けまいが度は進んだことになる。ただ、子供のころに眼鏡を掛けさせられたのが強い近視になった主原因と思い込んでいたことや、眼鏡は子供でも弱めの度数に矯正するべきだと考えていたのは間違いだったという事がやっと分かった。

注1. D.Adler et al The possible effect of undercorrection on myopic progression in children - Clinical and Experimental Optometry October 2006

丸刈りした2020年03月14日

頭が禿げ上がってしかも白髪なのでもう中途半端に伸ばしている意味がなくなった。そこで先日ついに床屋で丸刈りにしてもらった。すっきりして出家した気分だが、これも一つの意識転換のきっかけになるだろうか?
どんな感じなのだろうとスマホで自撮りして見たらそこには見慣れない老人が写っている。これが自分なのかと少々驚いたが、髪の毛の有無はもはやどうでもよいと達観できた。床屋では4㎜の長さで刈ってもらったが、髪の毛は直ぐ伸びるので今後床屋の回数が増えそうなのがデメリットだろうか。でも多少伸びても大差ないだろうから様子を見て行こうと思う。

日本国憲法2020年03月16日

政府や新聞などによる巧みな危機感の醸成によるのか憲法改正に賛成だと言う人は案外多い。しかし憲法の本質は国家権力が暴走しないように権力側を縛って国民の人権を守る点にある。従って国民が憲法改正に賛成することは羊が狼の鎖を解いてやるような怖さがある。先日、首相による緊急事態宣言 を可能とした改正新型インフルエンザ等対策特別措置法が施行された。首相による緊急事態宣言というとヒトラーによる大統領緊急令を連想してしまう。当時最も民主的と言われたワイマール憲法には国家の緊急事態の場合には国会審議を経ずに大統領が緊急令を発動できる脆弱な条項があった。ヒトラーはそれを巧みに使って民主主義を合法的に抜けくぐり、独裁の道を切り開いた。狼の鎖の一部に外せる隙間があったということだろうか?これに対し日本国憲法はもっと強靭で、その鎖を簡単に外す隙間はない。しかし、これも巧みな言葉で媒体を使い、国民という羊に民主的に鎖の鍵を外すよう誘導することは可能である。そうでなくとも日本国憲法は抽象的な理念や概念によって構成されており、憲法を改正しなくとも必要な法律は制定可能である。
旧憲法は天皇を根本原理としているのに対し、日本国憲法は主権在民と平和を基本原理に置いている。しかしその日本国憲法においても天皇は象徴と規定されることで継続しており、その存在の曖昧さが長く議論を呼んできた。この点で日本国憲法は高邁な基本原理に旧憲法の改変を組み合わせた折衷案とも言えるような革新性と保守性が同居している。日本国憲法の異質さは本来憲法を擁護すべき保守系が改憲を主張し、一方で第九条を守ろうとする革新系が天皇制の廃止に向けて改憲を主張(近年は民意を考慮して革新系も天皇制容認の方向に変わっている)するという、保守革新双方が別の目的ではあるが改憲を志向するという奇妙なものだった。日本国憲法は少なくとも発効以来改正されたことがない。これは第96条による改正抑止効果もあるが、それなりに普遍性という点で成功している理想憲法なのだろう。簡単に改変できたり抜け道のある憲法はたしかに緊急な事態に迅速な対応を可能とするが、それはまた悪意によっても簡単に国民に牙をむくものになり得る。

浴室リモコンの故障2020年03月18日

昨晩、浴室内のリモコンパネルが全く動作しなくなり焦った。台所リモコンのほうを操作して何とか凌いだが突然の故障に参った。業者を呼ぶのも面倒だし困ったなと思いつつ観察すると、どのボタンも全く反応しないし表示も出ない。台所側のパネルは全く問題なく動作する。通常台所側をオンすると浴室側パネルも点灯する筈だが、全くその気配もない。もしかすると制御ラインが切れているのかなと考えて、外のボイラー部に入るケーブルの端子BOXを調べてみた。すると1か所の端子のねじがグラグラになっていた(写真の端子板の一番右のねじ)。これかと思ってねじを締め付けたら案の定パネルは問題なく作動。単なる接触不良で修理時間5分(笑)。設置して13年目だから壊れても仕方ないのだけれど簡単なトラブルで良かった。しかしねじが完全に緩んでいるというのも変な気がしないでもない。最初から締められていなかったのだろうか?設置工事はしっかりとやって欲しいものだが給湯器に限らず案外この種のトラブルは多そうな気もする。

なお、良く考えてみると外のボイラーは温度変化幅も大きいため熱膨張収縮が繰り返され、動作の振動も加わるからねじ緩みがあっても不思議はないのかもしれない。特に凍結防止でヒーターが動作するとき、結構大きい交流音が発生する位振動を繰り返すのでこれが原因の可能性もある。

菜の花2020年03月22日

今日は穏やかな天気のため、家のすぐ近くを流れる川の土手を散歩。この川はごみを捨てる人が多く、汚染度も高くて残念な川だが、今の季節は川原一面に菜の花が咲いて綺麗だ。しかしどうしたものか、以前は沢山棲んでいた鯉が一匹も見えなくなってしまった。最も汚染に強いと言われる鯉さえも難しくなったか?たまに釣りをしている人を見るが、魚が釣れているところを見たことがない。

桜とアンテナ2020年03月28日

今日、隣のお寺の桜を見たらほぼ満開の様子なので無線のアンテナと一緒に撮ってみた。曇っているのであまり映えない。この辺りの桜は南の方より多少遅い気はするが、例年より一週間くらい早いだろうか。

電球切れ2020年03月31日

今度は浴室の電球が切れた。スイッチを入れた瞬間点灯し、直ぐ消えた。普通の電球はフィラメントを使っており、冷えた状態では抵抗値が低いためオン時にラッシュ電流が流れる。この瞬間が一番切れやすい。自動車のウインカランプなどでは点滅の滅状態でもアイドリング電流を流してこのラッシュ電流の発生を抑えている。真空管の傍熱ヒーターでも直熱フィラメントでも同様で、昔は真空管の寿命を上げるためラッシュ電流を抑制する工夫をすることもあった。また、フィラメントの電圧―電流非線形特性を利用して電流の安定化制御素子として使うこともあった。浴室では防滴のため電球が密閉された筐体に収容されているから熱が籠って温度が上がりやすく、電球の寿命を下げる要因になる。このような用途では電球型蛍光ランプやLEDは温度上昇に弱いことも多く、あまり向いていない。普通の電球が一番合うようだが、現在は生産も殆どされておらず、店の在庫も少なくなって入手しにくくなっている。今回はたまたま家の中に保管してあった40Wの電球を探し出して入れ替えることが出来た。これまでが60Wだったから若干暗いが差支えはない。それに40Wに下げることで発熱も減るため寿命の向上が見込めるし、電気代も減って都合が良い。これからもっと先には代替としてLED電球しか手に入らなくなりそうだが、用途によってはフィラメント電球の方が向いていることも多いため、製造中止されるのは残念である。電気部品はランプだけでなく、トランジスタや抵抗やコンデンサ等々あらゆるディスクリート部品が手に入らなくなって行く。手に入るとしても選択肢は昔に比べて著しく狭くなっている。昔はいくらでも低価格で手に入った電子部品が今はどんどん入手困難になり、電子回路の自作や実験のための部品入手も年々難しくなってきている。だから今の子供たちは電子工作に興味を持つものも少なくなっているようであり、これが将来の日本の技術にどういう影響を与えるのか気になる。