映像の世紀 ベトナム勝利の代償2025年01月28日

1月27日NHKで放送されたものを観た。ベトナムの自由独立に向けた30年間の悲惨な闘いを描いている。記憶に留めるためその概要をここにまとめておく。

1900年頃のベトナムはフランスの植民地で資源が搾取され、人民は奴隷のように低賃金で働かされていた。若きホーチミンはフランスで祖国ベトナムの独立を目指す地下活動を続けていた。1940年には日本もベトナムに進出してフランスと日本の双方から支配される。
1945年日本の太平洋戦争敗戦直後にホーチミンはベトナムを掌握し、一旦は独立を宣言した。しかしフランスはベトナムの独立を認めず、フランスとの戦争が始まる。

強力な軍備のフランス軍と弱小のベトナム軍の激しい戦いの結果、戦略と戦術に優れたベトナムが予想外の勝利。和平協定の結果ベトナムは北と南に分断された。
北はホーチミンの社会主義政権が掌握し、南はアメリカが支援する傀儡政権が擁立された。
アメリカは南ベトナムに軍事支援を進め、北ベトナムは南に人民軍を送り込むと共に南の民族解放運動を支援してアメリカと戦うことになる。

ホーチミンは日本のジャーナリズム、日本電波ニュース社に西側で唯一報道を許した。
1964年アメリカはベトナム南北の争いに本格参入する。世界最強の軍事力を誇るアメリカ対アジアの弱小国北ベトナム。この戦争はゾウとアリの戦争と呼ばれた。
北ベトナムを勝利に導いたのはホーチミンが呼びかけた愛国競争運動による団結だった。

アメリカは北ベトナムを爆撃し、対する北は南に人民軍を送り込んで戦争が拡がっていく。
当初はアメリカ国民も戦争支持が多かったが1968年のテト攻勢から流れが変わってくる。
テト攻勢とは北ベトナム人民軍と南ベトナム解放戦線による攻勢である。
南ベトナムのサイゴンを戦場とするテト攻勢は北ベトナム側の失敗にこそ終わったがアメリカ軍の後退は続き、衛星回線の同時期開始により戦争の様子がアメリカ本国にも映像で伝えられ、アメリカ国民はその悲惨さを目の当たりにした。その結果米国内の反戦運動が高まり、結局アメリカのジョンソン大統領は北ベトナムへの攻撃を中止し、米軍はベトナムから撤退せざるを得なくなった。
1975年北ベトナム人民軍と南ベトナム解放戦線はサイゴンを陥落させて勝利した。ベトナムは統一されて、1976年サイゴンはホーチミン市と名前を変えた。

この戦争の結果、アメリカ軍は6万人が戦死。しかし一方アメリカの無差別攻撃によりベトナム側は国土の多くが焦土と化して300万人が犠牲となり、さらに米軍の枯葉剤散布により300万人が被害を受けて今も二世三世への影響は続いている。

ベトナムは自由と独立を達成できたがその犠牲はあまりにも大きかったと言わざるを得ない。この犠牲の大きさを見て思うのは、この戦争を何故回避できなかったのか?何故もっと早く終わらせられなかったのかということだ。思うにそれは大国の奢りにあったのではないだろうか。

ベトナムはその後素晴らしい経済発展を続けて現在に至っている。そして今日もまた世界で愚かな戦争が続いている。

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