渋滞について思うこと2019年04月30日

連休に入ると毎年の風物詩の車の渋滞の様子が報道される。どうして皆懲りずに同じことを繰り返すのか?渋滞を楽しんでいるとしか思えないと言ったら怒られるだろうか?事故や工事は別として、自然渋滞は走行する車の存在密度がある程度を越えると発生するようだ。川などの水の流れだと流量の多寡に関わりなく常に連続して流れ続けるが車の流れにおいては何気ない要因で車がいつのまにか停止して並び、再発進するときには次々と時間遅れを伴いながら時間をかけて動き出す。これが繰り返されて疎密波のようになり大渋滞を生じる。ちょうど砂のような固形物の流れに似ている。砂が重力に従って流れ落ちるときには少し狭まった場所などにくるとお互いの摩擦によってある時間砂の塊が生じ、これが抵抗となって積み重なる。いったん砂が積もって塊となると流れは停止し、又流れ出すのに時間がかかるという間欠的な流れになる。これは車の渋滞と似ている。車と砂粒は同じなのかもしれない。国の経済などでもある面は似ていて、お金の流れも適切な流通量の間はよいが、皆が同じ方向に向かうからちょっとした絞りが引き金になって周期的に停滞が起こり、不況も繰り返される。車の渋滞も皆が同じ行動をするから過度に集中し発生に至る。これらは砂などの固体の粒と同じで相互の摩擦の影響を受けやすく、本質的に流れの停滞を生みやすい特性を持っている。砂よりも摩擦の少ない水や、それよりさらに自由な気体なら停滞は生みにくくなる。人間も各々がもっと自由に行動するならば停滞とは無縁になるのだろうが、古来より人間は同じ方向を向いて力を合わせることで強い力を発揮してきた。その人間の基本特性を考えると渋滞の波の繰り返しこそが発展の原動力なのかもしれないとさえ思えてくる。その発展の代わりに個人は自由度を失っていく。人間にとって何が幸せなのだろうか。

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